労働安全衛生総合研究所

血中における低濃度の鉛がヒトの生殖・発達に及ぼす影響

1.はじめに


 鉛(なまり)は最も古くから知られている有毒金属の一つです。職業的ばく露による生殖障害は、鉛産業で働いていた女性を中心としたPaulの報告(1860)が最初とされています。それ以来、高濃度の血中鉛(25-40µg/dl)が不妊や流産、死産などを引き起こす原因とされています。しかし、近年では「許容基準以下の」血中鉛濃度(≤10µg/dl)においても、いくつか有害な生殖・発達への影響を引き起こすことが報告されています。普段皆さんがあまり気にしていないようなばく露状況においても、不妊症や流産、自然流産、早産、男性生殖器系の障害、子供の神経行動の発達障害などの問題が起きている可能性があります。そのため、鉛産業ではない職場に就労している女性の低濃度の鉛に関連した臨床的および無症候性の生殖発達障害に注意を向ける必要があります。


2.鉛の毒性における性差


 疫学研究によると、男性は女性よりも血中鉛濃度が高いことが示されています。男性の血中鉛濃度が高い要因は2つ知られています。第一に、男性は女性よりも高レベルの鉛にばく露するリスクが一般的に高いからです。第二に、男性では血中ヘマトクリット値が女性よりも高く、鉛の大部分は赤血球に結合するため、より多くの鉛が男性の血中に濃縮されるからです。同様に、骨中鉛蓄積量も男性の方が女性よりも高いことが知られています。しかし、女性の方が男性よりも骨に蓄積された鉛を血流中へ放出する速度が遅いため、ばく露が中断した後も女性の方がより長く血中鉛濃度が増えたままになります。このように、性別によって体内動態が違っているため、男性での研究結果を女性に外挿することができません。


3.鉛と妊娠


 妊娠中は有毒物質に対して非常に敏感な期間です。妊娠により、骨形成のために骨に蓄積されていた鉛が放出され、母親への鉛ばく露が中断した後でも血中鉛濃度は最大20%まで上昇します。骨が保持していた鉛を妊娠中に放出することは、妊娠からその次の妊娠にかけて血中鉛濃度が有意に下がることからも証明できます。妊娠中に増加した血中鉛は、内因性(骨に蓄積)のものが主ですが、胎盤を自由に通過することができ、臍帯血中の鉛濃度は母親の血中鉛濃度の最大80%に達します。そのため、母親を経由した長期の胎児の鉛ばく露によって胎児組織に鉛が濃縮されますが、それは急速に成長する胎児の中枢神経系には極めて有害であり、精神発達遅滞のような正常に戻すことができない障害を誘発する可能性があります。



図 1. 被験者の血中鉛濃度の分布; 実測値(A) & 対数値 (B)

曲線: 被験者の血中鉛の分布、破直線: 被験者の平均値




図 2. 血中鉛濃度と在胎週齢の相関(ピアソンの相関係数解析)

縦軸–出生時の在胎週齢 (母親のお腹にいた時間) 横軸–母親の血中鉛濃度
A: 妊娠女性全被験者 B: 横軸を自然対数に変換 C:偏在する6例を除外

いずれの場合(A-C)にも血中鉛濃度と早産との間には有意に相関があります。特に10µg/dl 未満の血中低鉛濃度でも同様であることが分かります(C)。


4.子供の精神・発達への影響


 胎児期の脳は急速に成長する状態にあるため、比較的軽微な環境有害物質のばく露によりその後の認知機能に障害が生じる可能性があります。多くの研究により、「許容可能な」血中鉛濃度において鉛ばく露がヒトの精神発達に及ぼす影響が明らかにされてきたため、鉛が子供の発達に及ぼす影響は未だに関心のある話題です。この影響は特に妊娠初期の血中鉛濃度上昇において見られています。しかしながら、出生前の低レベルの鉛ばく露がヒトの精神発達に及ぼす影響に関する最終的な結論は、一貫性の観点からはっきりしないままです。



図 3. 血中鉛濃度と子供の発育指標との相関性(ピアソンの相関係数解析)
縦軸– 20-36カ月における子供の発達指標 横軸–母親の血中鉛濃度

・妊娠第1三半期における総血中鉛 (BPb) (A), その自然対数値(B), および 偏在値を除外(C)
・曲線は95%信頼区間における最適モデル


5.おわりに


 低濃度血中鉛の男性生殖器系への影響についてのデータは一貫していませんが、女性に関しては、特に妊娠初期にばく露をうけると、妊娠合併症や新生児の精神発達の遅れがおこる危険が増えることを示しています。そのため、出産年齢における女性の鉛ばく露は重大な関心事であり、労働衛生上の問題となりえます。 また日本では、鉛産業での女性の就業は女性労働基準規則で禁止はされていますが、許容値以下でも妊娠に悪影響が示されてきますと、鉛産業ではない産業に就業する女性が鉛(あるいは他の重金属)の影響をうけている可能性が高いことになります。
他方で、入手可能なデータに基づく限り、ヒトの生殖系や精神発達への鉛の有害影響に関して明確な閾値を決めることができません。したがって、特に妊婦や小さな子供のような高リスク集団に関しては、血中鉛濃度を最小にし、可能な限りゼロに近づけることが望ましいといえます。


6.謝辞


 本研究は、当研究所の基盤研究の研究費の他、学術振興会・科学研究費 基盤研究(B)・「開発途上国における環境汚染の発生・生殖影響に関する国際共同研究(2006-2009年度)」および「開発途上国における環境汚染の小児健康影響に関する国際共同研究(2011-2014)年度」(研究代表者・順天堂大学医学部 横山和仁教授)を主な研究費として用い、本研究所とテヘラン大学および順天堂大学との共同研究により行いました。




(産業疫学研究グループ 元主任研究員 ヴィージェ・モーセン、  上席研究員 大谷勝己)

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